フランク・ロイド・ライトと日本

フランク・ロイド・ライト有機的建築とつながる日本文化

日本建築との出会い

ライトの日本建築との出会いは1893年のシカゴ万国博のパビリオン日本館鳳凰殿でした。
その同じ年に、彼は師サリヴァンのもとを辞して独立します。
26歳の彼には、既にオリジナルな建築観や建築論、そして設計手法が確立していたのです。
当時、米国はわが国と同様、建築近代化の後進国でした。
主導権は欧州の建築家たちに握られ、米国の建築家らは大西洋を渡って留学することで
活躍が保証されたのです。

ライトはこうした欧州追随を快しとせず、穏やかな気候、豊かな自然に恵まれた、
庶民の間に芸術が横溢する国『日本』
に興味を寄せました。
1905年の日本旅行は、彼にとって初めての海外旅行であり、多くの刺激を受けたのです。

有機的建築(オーガニック・アーキテクチャー)

ライトは「有機的建築(オーガニック・アーキテクチャー)」を標榜して、その実践に
邁進します。人間性豊かな建築を追い求めたのです。
欧州主導の近代化は、その目標を機能性、合理性の徹底した追求としたために、
都市はコンクリートとアスファルトで固められた建築となり、土壌が息絶えたもの陥ったのです。
彼の志向はこれと対極的なものとして相容れず、常に異色の、あるいは異端の建築家と
見做されてきました。しかしながら、彼の建築物はその後大いに愛され、300軒以上の
建築物が大切に残されています。

日本にあるライトの建造物

さらに、落水荘をはじめ10軒の建築物が、2016年世界遺産に登録されようとしています。
このライトの建築物がわが国に4軒も残されていて、さらに彼のルーツに日本建築があるということは我々日本人が誇るべきことであると思います。
そして、ライトの建築物は日本の文化が大いに取り入れられた建築であるが故に、日本人にも安心と居心地の良さを感じさせるのかもしれません。

自由学園 明日館(1921年)
見学可能 東京都豊島区

羽仁吉一、もと子夫妻が創立した自由学園の校舎として、ライトが設計しました。明日館建設にあたり羽仁夫妻にライトを推薦したのは遠藤新で、帝国ホテル設計のため来日していたライトの助手を勤めていた遠藤は、友人でもある羽仁夫妻をライトに引きあわせました。夫妻の目指す教育理念に共鳴したライトは、「簡素な外形のなかにすぐれた思いを充たしたい」という夫妻の希いを基調とし、自由学園を設計しました。

自由学園 明日館
帝国ホテル(1923年)
見学可能 愛知県犬山市

関東大震災にもビクともしなかった建築物。
現在は玄関部分を明治村に移設され、改修されたもの。平等院鳳凰堂や寺社仏閣の要素を多く取り入れた、厳かで重厚感があるにも関わらず、迎え入れてもらえるような感覚になる建築物です。

帝国ホテル
旧山邑邸(ヨドコウ迎賓館)(1924年)
見学可能 兵庫県芦屋市

神戸・灘の酒造家である山邑家の別邸と して設計されました。実施設計と監理はライトの弟子である遠藤新、南信によって行われました。
その後、株式会社淀川製鋼所社長の自宅となり、1989年より淀川製鋼所迎賓館として一般公開されている。奇しくも、阪神淡路大震災で被災し、一部破損したが、調査・修理され、現在はヨドコウ迎賓館として一般公開されています。

旧山邑邸(ヨドコウ迎賓館)
旧林愛作邸(電通八星苑)
見学不可能 東京都世田谷区

帝国ホテルにおける初の日本人支配人だった林愛作は、旧知のライトをアメリカから呼び寄せて、ホテル新館の設計を依頼しました。
ライトのこだわりにより、工期は遅延し建設費も予定額を大幅にオーバーしたのを、かばい続けたのが林でした。
しかし、宿泊者に犠牲者が出たホテル失火の責任をとり林が退任したことで、ライトも大事な理解者を失い、ホテル新館完成を見ることなく離日を余儀なくされました。
日本におけるライトの最大の理解者であった林愛作の自宅ということで、ライトもその設計には相当気合を入れたようです。
日本にあるライトの4作品のうち、彼が日本滞在中に完成したのは、この林邸だけだったことからも、そのことが伺えます。
現在、林愛作邸は電通の厚生施設になっており、通常は非公開となっています。